KGAA 寄附講座「大学とスポーツ」

An Elderly Wanderer, 我が足跡を振り返って未来に翔るKG若人に贈る」

   
 昭和38年経済学部卒 南井克之
平成261218日 関学にて講義







卒業して、50年以上も過ぎました。本日は、ワンゲルOBとして、学生の皆さんに、何らかの参考になればと、自分の人生を振り返ってみることにします。

卒業後、就職し、アメリカを主とした海外駐在で、英語圏での生活経験が長かった為に、時々、英語や海外で私が経験したエピソードが出てきます。先ずテーマですが、An Elderly Wandererそれなりに歳を重ねた、一人の年輩のワンダラーである私から、将来(みらい)の有る学生の皆さんへという意味合いです。纏めになる私のメッセージは、学生生活の4年間は、その後の人生にとって、掛けがえの無い期間であり、自分を鍛える、磨く、作るには、大学の4年間の今しかないということです。昨年の流行語大賞だった、「今でしょ」ですね。ところで、ここで、早速、「今でしょ」「今しかない」と言うのは英語で何というでしょうか?私が思い付いたのは、歌手エルビスプレスリーのlove song「さび」の一節、
 

 It’s  now  or  never !

です。4年間は、過ぎてしまえば、2度とはやり直せない。

 

先ず、ワンダーフォーゲルとは、元々ドイツ語で、言葉そのもの意味は、wander渡り歩く vogel 鳥、渡り鳥19世紀末、第一次世界大戦で敗戦したドイツにて人間の心を取り戻すため、自然遍歴の旅をしょうと、全ドイツの徒歩旅行団体を結集し、名づけられた運動、山野を巡り歩いて、心身を鍛えることを目指すスポツという位置づけです。その運動が日本に伝わり、共鳴した、多くの大学がスポーツとしてのワンダーフォーゲル活動を始め、昭和30年頃までには、全日本の連盟組織も出来ていたようです。


我が大学のワンゲル部の歴史を振り返ります。体育会加入を念頭においていましたが、試合、記録、競争が無い為、「スポーツワンデリズム」という活動の理念を打ち立てて、創設されました。

アルピニストの登山が、部外者の助けを得ても、高い山の登頂制覇を目指すのに対し、我がワンダーフォーゲル部は、団体規律の下、トレーニング・訓練合宿を行い、その上で、夏山・冬山のみならず、沢登りや藪漕ぎも含めた、幅広い地域での、美しいが、厳しい自然を踏破する、学生の活動を目指したのです。

これは、長野県の戸隠高原にある、関西学院大学戸隠山小舎です。学院からの援助金、ワンゲル部のOBOG, 現役父兄からの寄附、ちょっとしたイベント収益、現役アルバイト料などからの資金を得て、建てられました。ワンゲル部員の心の故郷とも言うべき存在で、今も、ワンゲル活動と切っても切り離せない関係にあります。50名、寝袋使いなど、泊まり方によっては、100名近くは泊まれますが、夏の慰霊祭、冬のスキー合宿、そして、その合間を縫って戸隠の人々やOBOGとの交流などに、使用されています。 


創設は昭和30年、体育会への加入は昭和33年、部への昇格は昭和36年。その部に昇格したのは 私が3年部員の時でしたが、部への昇格運動などで中心的活動をしていた3年部員一同は、嬉しくて、頭髪を丸刈りにしたものです。私は、生れて初めて自分の坊主頭を鏡で見た時、何とも言えぬ気持になって、涙が出たのを覚えています。現在、創設から59年ですが、OBOGの人数は453名、現役の部員数は男子24、女子10、総人数34名。なお、ここ数年間の部活動については、一部の学生諸君に、ホームページを読んで貰いましたが、未だの皆さんも、是非、目を通して下さい。


さて、それでは、このような順番で話を進めます。小学生の頃、関西学院中学部・高等部 大学生活、会社勤めの時代、それから、現役退職後の今、最後に、皆さんへのメッセージです。

先ずは、60歳を過ぎて参加した小学校や中学校の同窓会で、幼い頃と本質的に変わらない、言い換えれば成長していない今の自分を発見したことの話をしましょう。     


左上の写真は、妹と、右上の写真は、塀の上で撮られたやんちゃな同級生とのものですが、何れも小学校4年生の時のもの、下の写真は、昨年10月に大阪の集まりで撮った、その小学生の時の同窓生とのものです。この56年前から同窓会には40名程が集まっています。50年振りに会い、歳を重ねていても、お互いに昔の面影や雰囲気は、そのままに残っていました。私については、女子のことが気になって仕方が無かったこと、また、場を盛り上げようとすることなど、昔と全く変わっていないと言われました。良いこと、言い難いこと、皆から子供の頃の我が振る舞いを率直に指摘され、幼い自分と大して変わっていない今の自分を知り、色々と思い出され、思い当たり、歳月の過ぎたことを忘れさせてくれるのです。幼い頃の友だちとの再会は何とも楽しいものです。

この写真は中学生の時の修学旅行の写真ですが、今から話します思い出の登場人物2人も写っています。どういう話かと言いますと、数年前に開かれた、この中学時代の同窓会でのこと、一人の級友が『お前、3年生の英語の授業で、先生に向かって、何を言うたか、覚えとるか?』と、言うので、「ワシ、何言うた?」と、訊くと、『先生、今の発音、可笑しいですよ』と言ったらしい。しかも、それも一度や2度では無かったという。その一年後の別の同窓会では、違う旧友から、『お前、一年生の英語の授業が有ったやろう』「あぁ・・・背の高いカナダ人の先生の授業やなぁ。ワシ何か、言うた?」と、訊ねると、『何にも言わへん。何で、こんな簡単な英語が分からへんのや?という顔をしとった。俺、50年経ってもその顔を覚えている』という。それで思い当たったことですが、今も小さい頃の自分とは変わっていないなぁ。先生の此れからの為、常に相手の為と思いながらも、もう一歩進んで心配りが出来ない自分を認識する機会となったのです。この時、会社時代に於いても、納得出来ない上司には、発言に加え、顔に心の内をモロに 出していたんだなぁと思い当った次第です。勿論、気が付いたのが、既に遅しですね。因みに、中学校の級友の話には続きがあり、彼は、私が示した屈辱的な顔つきが忘れられなく、その後は英語の勉強に励み、やがて、中小規模の商社の社長となり、今でも海外とのやりとりをしています。全ては、『あの時のお前の顔つきのお蔭やな、感謝しとる』と言っています!三つ子の魂百までと言いますね。人の性格、根っこは、変わらないものだと、痛感した次第です。

さて、この諺、三つ子の魂百までを 英語では どう言いますか? 

 The child is father of the man.

同窓会で、旧友たちが認識させてくれた自分、それは相手を想う、優しい気持ちがあっても、誤解される、人の気持ちをキズ付けることも有るということでした。遅まきながら相手の立場に立つよう心掛けているつもりですが、なかなかです。何れにせよ、変わることなく持っているものを認識させてくれる、幼い頃の友達との付き合いは、自分を見つめ直す為にも、大事なものだという意識が生まれました。

実は、この講義の後、その幼い頃友達の8名と、東京に戻る前に、お茶会あり、会うことになっています。

さて、関西学院中学部の時に、先生に勧められて参加した、朝日新聞社主催の英語弁論大会で優勝しました。

これが、その時の写真です。

そのことも切っ掛けで、高等部では、E.S.S.に所属し、カナダ人のノーマン先生から英語弁論での特別指導を受け、先輩からも、色々と教わりました。お蔭で、ネイティブの発音、イントネーション、何より英語でのプレゼンテーションの力を、其れなりに身に付けることが出来たように思います。

次は、恩師の思い出です。中学部長であった矢内先生は、優しいが、威厳もあり、英語の授業の雰囲気や教わった英語表現や諺は、今でも思い出し、同窓生と話すことが有ります。そして、

高等部の体育授業の多胡先生、私が好きなラグビー主体の時間が多くあり、体育の科目が、全科目の中で、3年間を通して一番良い点数を貰えました。お蔭で、身体を動かすことは楽しい、スポーツは良いなぁと思わせてくれました。大学では、何か身体を鍛える運動部に入りたいなぁという切っ掛けとなったのです。

右隣に写っている先輩は高等部の弁論優勝者ですが、当時から、関学は 英語教育に力が入っていたことが窺えます。此の先輩は、ごく最近まで、英語力・交渉力を生かし、会社時代から関わった 木材事業で大活躍されていました。一昨年、東京で再会し、思い出を語り合いました。実は、その際に、私の西宮の実家が阪神大震災で壊れ、アルバムも喪失していた、この写真を思いがけなく、持ってきてくれたのです。

この写真は、私が43歳、高等部の時に、英語弁論の特別指導を受けていた、ノーマン先生が、カナダのトロントから、私が駐在しているニューヨークに訪ねて下さった時のものです。恩師との繋がりが長い間出来ていたことに感謝したひと時でした。

大学生活のことに入ります。先ず、ワンダーフォーゲルへの入部の動機です。 

私には、兄が2人いますが、2人とも、学院の経済学部出身者。私が大学に入学した時には、夫々卒業していましたが、5歳上の兄は、学生時代は山岳部員、社会人になってからも、世界の高い山々への登頂活動をしており、10年前の69歳の時には、8,000メートルを越えるヒマラヤの峰を登頂し70歳代の後半になった今も、日本山岳会員として、ヒマラヤの7,000メールに近い峰々への登山を続ける山男です。4歳上の兄は創設間もない頃のワンゲル部で、2年間キャプテンとしても活動してたという関係もあり、山やワンゲルに対して、多少の知識がありました。そこで、大学では自分も勉強ばかりではなく、心身を鍛錬したい、それも、厳しい団体生活で、自然の良さ、怖さを知ることが出来る 部活動をしたいと思って、ワンゲルに入部しました。入部してみると、坂道の多い学院周りの長距離ランニングは当たり前のこと、人を肩車で甲山を登るとか、山では砂袋を積んだ重い荷物を担ぐとか、それは厳しい訓練を行って、その後に初めて、自然を歩く合宿に入るという部活動でした。私は1、2年部員の間は、走っても、歩いても、遅れを取るバテ気味の部員生活の日々を過ごしましたが、それでも、入部当初の気持ちを忘れず、自己鍛練することが大事と思って、4年間頑張り通しました。厳しい中で初めて見出す楽しさ、美しくも怖い自然と向き合う緊張感、確かに張り詰めた部活動でしたが、その分、同期とは勿論のこと、年月が過ぎても、世代を超えてのワンゲル先輩・後輩間の生涯の絆が強く育ったのだと思います。


 

これ等の写真は、雪山での活動中の姿や同期の仲間との50年前の写真です。

次に、山での事故の話をしましょう。一年部員の秋合宿、日本アルプスで、岩がごろごろと多いガレバで知られる、凍った斜面を滑落しました。その距離1km、高低差300mでしたが、大した怪我もなく、まさに、九死に一生を得た滑落事故でした。その時、関西学院で6年間、キリスト教育を受けてきた自分を、神さまが救って下さった、俺には、何かやらねばならない使命がきっと与えられているのだ。ならば、ワンゲル活動の無い時には、しっかりと学生の本分は全うしようと、心に決めたことを覚えています。

次は、会社時代にも心掛けることが出来た、ワンゲルで得た教訓の話ですが、2年部員の時、肉体的に厳しい練成合宿でのこと、「頑張っている1年部員の前で、弱音を吐くとはケシカラン」と上級部員に殴打されたことがありました。キャプテン・副主将と私だけがいる八ヶ岳連峰の池の畔の岩陰での殴打でしたが、瞬時に、殴打の背景、つまり、立場をわきまえない自分の言動を納得したことを覚えています。上下関係の中で、自分がどのような立場にあるのか、そして、それに相応しい言動が求められること、それが何より大事であることを、身を持って学びました。昨年の夏、50年振りに戸隠で会った当時の先輩にも、その旨の感謝の気持ちを伝えました。この経験から、会社時代にも、辛い思いをしながら頑張っている部下や若い人たちのいる前で、会社、事業、上司について、否定的なことは云わないように気を付け、心掛けていた自分を覚えています。

次は、いざという時のOBの結束力のことですが、10年前、マスコミにも報道された、雪の大長山での遭難事故、その際、事故の救助や後始末に800万円強の費用が掛かりましたが、当時302名のOBOGから、予想を超える700万円近い義援金が、それも一挙に集まりました。それは、自分たちの現役時の厳しくも、楽しい活動を思い出し、何とかしなければと、多くのOBOGの心が動いたことの証です。なお、学院はじめ皆さんからの心のこもった、ご支援のお蔭で、全員、無事に帰還できた事故でした。

この写真は、昨年のワンゲル同期との集まりで、三重県は御在所岳の頂上で撮ったものです。 

50年前、それは厳しい、それだけに楽しい思い出となっている団体生活を一緒に過ごした仲間です。

私は、規則正しく、身体を動かせば動かすほど、やりたい仕事や作業の能率が高まる、良い考えが生まれる、ストレス解消になる、仕事も勉強もはかどる、そういう体質だと思っています。

ワンゲル時代は、トレーニングや合宿により、授業に出られない日も有り、友人の筆記ノートに頼ることが間々ありましたが、それだけに、出席できる授業には集中が出来ました。身体は疲れていても、寧ろ頭が冴える感覚があり、効率的に授業のポイントをしっかりと把握出来たような気がします。「ここは試験に出るな」という予想も結構当たったものです。

 Mastery for Service  

これは言わずもがな、本学のスクールモットーですが、このモットーを目にするたびに、社会に出て、役立つ大人になりたいと考えていました。ただ、70歳を過ぎた今、皆さんの前で、スクールモットーを今なお体現しているとは、胸を張って断言出来ないと、此れは、私の妻に言われるのですが、いささか、残念なところではあります。が、その通りなのでしょうね。まぁ、私なりに日々頑張っております。


では、卒業後の40年間の会社勤めの経験の話をします。勤務した会社は合成繊維やプラスチックフィルム・樹脂の製造業、私は、その営業分野を担当。入社当初の8年間は、大阪で国内の織物販売を担当、メーカーとして売れるモノづくりの一端や 営業の基本を叩き込まれ、その後の仕事への出発点として学ぶところは大いに有りました。其の頃のことで、今でも忘れられないことは、取扱い製品によって受ける、お客さんからの営業担当への対応の落差、これを身を持って体験したこと。市場で受けの良い、良く売れる製品を担当する同じ会社の後輩が、アポイント時間通りに商談できるのに、どうにかアポイントを取りつけた自分は後回しにされ、ロビーで待たされる状態となり、理不尽さを抱えたものでした。しかし、その時に学んだアポイント取り付けの難しさや、担当する商品から受ける市場の扱いの落差を若い時に経験したことが、その後の会社勤めでの営業の心構えのベースとなったこと、これは間違いありません。

さて、入社9年後、日頃から、いつかは海外勤務したいという願望はありましたが、30歳の時、会社の海外進出の先駆けであった、アフリカは織物製造のエチオピア政府との合弁会社へ出向ということになりました。最貧国での3年間の駐在でしたが、当時、得たものは、アフリカ大陸への知識と親近感。東京オリンピックでのマラソン覇者アベベ選手の葬儀にも出向きました。その後の15年間の欧米駐在の前に、このように全く違う世界を見ることができたこと、それは、それなりに、得難いグローバルな視野を広げる準備ともなり、有益な経験だったと思っています。

  

2枚の写真は、高度2,300mという高地にある首都アディスアベバで撮ったものですが、左は、我が家の門番とメイド、右は、ヒルトンホテルを背景に、町なかにもいる山羊の前で、3歳の長女とエチオピア生まれの次女を抱えて撮ったものです。下の写真は、高度1,000mくらいの旅先で見た風景。

エチオピア駐在の後、34歳で東京勤務となり、それ以降、大阪には戻らずという人生となりましたが、会社の本流の繊維事業を離れ、新規事業や先端材料分野での海外営業開発という役割を担うことになりました。そして、39歳で、ニューヨーク勤務。先端材料として期待されている分野で北米営業開拓の先駆者としての6年間の任務でした。その中でも、苦労したのは、水処理技術やメディカルも含む色々な分野での専門・技術用語の為に必要な英語力でした。心掛けたことは、日本人、つまり、アメリカでは、外国人であることを旨く活用すること。これを、英語では、

 play the foreigner card

と言います。「日本人がアメリカのそんな事まで知っている!」と驚かせて、心を掴み、惹きつけることで、難しい局面を切り抜ける やり方です。

例をあげてみましょう。実際は、ニューヨーク勤務の後の、日本からの出張でのことです。

カリフォルニア州はサンホゼで、ガラス繊維をライナーに巻いた消防士用空気ボンベ分野で、当時注目を浴びていた新進の会社との商談でした。同社のボンベは、その頃には一般的に使われていた、メタル製品に比べ、破裂に対する安全性、重量の点での付加価値が有るとされ、市場で注目され始めていた時期でした。私の会社の現地ロサンゼルス事務所の担当者の努力にも拘らず、私の為のアポが取れないままに一ヶ月以上が経ち、結局、予定していた前日、私自身が東海岸から 直接、西海岸のサンホゼの会社に電話を入れました。すると、社長が電話口に出たので、

This is Kirk Minamii. 「私はカーク ミナミイです」

と名乗ったら、その社長が、

Why Kirk? 「貴方が、また何で、カークなのか?」

と訊いてきました。予期せぬ質問でしたが、とっさに、

Because I like Kirk Douglas.「(映画俳優の)カーク ダグラスが好きだからです」

と答えると、その社長は、あっさりと、

“OK! See you tomorrow at ten thirty.”「いいね、では、明日、午前10時半に会おう」

と即答でした。 アメリカの往年の俳優の名前を自分の呼び名にしている日本人に 心を開いたということなのでしょう。
これが、play the foreigner cardです。 

そこから、同社の製品を日本市場で販売し、将来は製造技術を導入するという実質的な契約合意が出来、現在、炭素繊維がボーイングの航空機787に使われて、脚光を浴びていますが、その炭素繊維で補強した本分野のビジネスも会社の主要品目の一つに成長し、現在は、世界的に注目されているシェールガスを始めとする産業用ガスを貯蔵、輸送するタンクとしても、使われるまでになっています。取っ掛かりには、このような play the foreigner card の活用が在ったのです。

次に、ニューヨーク勤務での上司との関係で得た貴重な教訓の話しをしましょう。若い部下が頑張っているのに、窮地に立っている際、上司はどのように部下に関われば良いのか、ということを教えられました。上司は、部下にとっては、多少変わり者で、気難しい人物でした。その上司は、私が担当していた新規事業の市場開拓が順調に進んでいるのか、気を揉み、頻繁に指示してきていました。或る時、売掛金の回収ができない事案が発生し、顧客に出向いて、やっとのことで、支払い小切手を手にした。ところが、その小切手が不渡りとなってしまった。

The check bounced.”

激しく叱責されることを覚悟し、上司の部屋に赴いたところ、「おはようございます」という私に、機嫌よく「オー、おはよう」と返してくれました。責められる前にと、私は、「この度のことは申し訳ございませんでした」と言うと、『何のことかね?・・・あぁ、例の件ね。気にすることはないよ、君。あのような焦げ付きは、アメリカで新分野に挑むパイオニアには起こり得ることだよ。君は、よくやっている。ただ、これから、同じような焦げ付きを起こさないよう、一緒にシステムを考えてみよう』。それまで、きつい非難の言葉が降り懸かるものと覚悟していただけに、上司からの激励の言葉のお蔭で、事態を前向きに捉えることが出来て、損失を取り戻す方策を考える、更には、市場開発に拍車を駆けることに集中することが出来たのです。それまでの、その上司のイメージががらりと変わりました。この経験から、私はひとつの教訓を学んだ。物事が旨く進んでいるとき、上司たるものは厳しくて、口うるさくても良いが、明らかに何らかの難題を抱えて、途方にくれている部下に対しては、追い詰めてはいけない。むしろ、良い助言を与え、励ますことこそが、部下の成長になる。この経験を通して、私は変わったと思います。少なくとも、上司と部下の関係を、どのように構築してゆくべきかを意識し始めたのです。窮地に立つ相手とどう折り合うべきか、その時以来、我々の日常の人間関係やまた団体スポーツの中にも当てはまるものであると、そのように、捉えるようになっています。

さて、次に、長年に亘り、私の生活で可なりの部分を占め、レギュラーに続けている運動水泳人生の始まりの話です。30年前、マンハッタンでの慣れない新生活のストレス解消の為に、セントラルパークで、ジョギングを始めていました。ところが、東京から出張で来ていた私の大物上司が、『ジョギングは良くない、東京とは比べ物にならないくらい、これからの季節、空気が冷たいから』と言うのです。確かに、ニューヨークの気温は、摂氏零度を可なり下回ることもあり、走ると、肺の中が冷えてくる。すると、その上司は、自分が泳いでいたこともあり、オフィスの近くにあるヘルスクラブに入会して出勤前に水泳をすると良いと、熱心に勧めてくれました。その事が、私の「水泳人生」の始まりです。安くはないヘルスクラブ入会金を考えると、「おい、泳ぐ頻度を増やさんと、一回分が100ドル位の料金になるぞ」と、アドバイスする同僚もいて、週1回1時間を目途に、よっしゃ、泳がねばと、ちょっと『コスト勘定』から、決めたのです。 ニューヨーク郊外から出勤する為、出勤前に1時間泳ごうとすると、いつもより、1時間半も早く起きなくてはならず、可なり、きつかったのですが、慣れてくるにつれて、泳ぐたびに、リフレッシュでき、ストレス解消はもとより、仕事もはかどり、良いアイディアも浮かぶし、従って 仕事の成果も上がりました。それ以後、何処に生活していても、今日まで1週間に1回は泳ぐという自分のルールを守って来ており、年間の総距離は、今は130km大阪から名古屋の距離、まぁ年齢のわりには、良い健康状態を保ってきているかなぁと思っています。これも、ワンゲルで培った、心身鍛錬の継続精神ではないかと、An elderly wandererとしての 自画自賛です、かな?

さてさて、6年のニューヨーク駐在の後、東京に帰任、4年間、海外営業に携わった後、今度はフランスはパリに炭素繊維事業の現地合弁会社の役員として、2年弱駐在することになりました。それまで、出張では訪れたことのあるパリでしたが、現地で生活をするのは出張時とは、大違いでした。それは、私がフランス語を全く使えなかったことにあります。パリでの会社代表としての独り暮らしは、フランス語が分からない為に、それは、惨めなものでした。

幾つかの惨めなエピソードを 参考までに挙げてみますと、
@  アパートに置いてあったテレビ。いつまでたっても、「意味のない音」を発している代物、私にも解る情報はと言えば、次の日の天気予報図の動画と数字で示される気温のみ。
A  テレビや新聞では、ストライキ決行が有るかどうか、と報道していても、さっぱり分からず、出勤に使う地下鉄の駅で、朝に分かるということもありました。
B  アパートから自分でするタクシー予約のことですが、何度も練習し、準備したメモを手にして電話をしても、確認が出来ず、結局は、パリ滞在中、幾ら荷物が大きくてもタクシーのりば迄歩くことにしていました。
C  単身赴任だったので、料理する為の食料品を買いに行っても、いつも、店では、買いたいものを指差して、幾つ欲しいかも指の本数で示すようにしていました。「イワシ、4匹!」と。片言でも話すと、店員は、次から次へと、親しげに話しかけてくるからです。あれやこれやに起因するフラストレーションの為、パリに滞在した間、体重が1割も減り、日本人医師が処方してくれた睡眠薬を服用せざるを得ない期間もあり、仕事で一時帰国すると、家族が、痩せた私を見て、ハンガーに背広がかかっているようだと、絶妙な譬えをしていたのを覚えています。次に述べる出来事は、やはり、私のフランス語にまつわるものです。今となっては、笑い話になりますが、フランス語の発音の難解さの良い例です。駐在期間が残り1ヶ月になり、東京へ帰任するという時期でした。工場に勤務している会社の経理部長に電話で連絡をとりました。勿論、彼女とは、いつものように、英語で話していました。業務用と個人用の銀行口座を閉鎖する手続きにつき、経理部長の手助けが、この様な手続きには2人でサインする必要が有るからです。銀行に行く前に、分かり易いと思われた有名な百貨店プランタンの前で落ち合うことを、私が提案したのですが、何度、繰り返しても、彼女にはプランタンが通じませんでした。私は何度も、出来る限りに正しいと思われるフランス語の鼻音で、その百貨店の名前を発音してみましたが、それでも、分からない聞き取れないと言うので、つい大声で、
“Madam Gishah, what do you say Spring  in French?”「マダム ギーシャ、フランス語で、『春』は何と言うのか?」と訊くと、彼女は、
“Oh, Primtain!” 『あぁ、プランタンね!』
発音が どう違うというのか. 「ところで、パリにPで始まる百貨店が、他に在るか?・・・」と、私は思わず、文句を言ったものです。言葉が通じないと言うのは大変です。  

それでも、一つ、忘れられない心楽しい経験がありました。それは中華料理店でのこと。その店には英語のメニューがあり、英語での注文が出来る店だったので、ひとりでも気軽に食事ができました。その夜、56組の客が小声で話しながら、静かに食事をしていたのですが、私の隣のテーブルで、明らかに父親と息子の2人が小声でアメリカ英語で話をしているのが聞こえてきました。思わず、Where are you from? 「どちらから?」と、訊いたら、カリフォルニア州からと言うので、カリフォルニアの何処からか?と続けて訊いていると、その会話を耳にした他のテーブルにいた客たちがこぞって、私たちに話しかけてきました。驚いたことに、その場にいた客は全員がアメリカ人で、口々にアメリカ英語がほとばしり、店の雰囲気が一変し、会話の弾む場になりました。全員、口を揃えて、フランス語が話せないので、周りに人がいると小声で話すように気を配っていたと言うのです。日本人に限らず、他の外国人にとっても、現地の言葉を話さないことの不自由さがあることを思い知らされたものでした。

ここで、パリに於ける惨めな経験の結論です。皆さん、世界中の人々と分かり合う為には、せめてコミュニケーションの手段としての英語は、身に付けて、それなりに活用できるようにと、特に若い人たちにはアドバイスしています。勿論、英語以外にも、フランス語などが出来れば良いことです。私自身、パリでの忘れられない経験が有ったからこそ、これからも、せめてものこと、今や世界的に使われる英語だけでも、学び続け、力をつけてゆこうと、決め、そのように今でも、努めています。

  

この2枚の写真は、現地のスタッフや、ロビイストと言われる、会社が雇っていた弁護士とのスナップです。

期間が短い割には、パリでの経験談が長くなりました。何でも辛いことが多かったので。

さて、次に進めます。米国市場で、炭素繊維を使った成型品事業に弾みを付ける為に、米国内の競合相手の会社を買収し、子会社化するという私がパリ駐在前に仕掛けていた案件がありましたが、その買収見通しが立ったので、パリからの帰国後に、51歳の私がその責任者として出向し、3
年間、ロサンゼルス郊外で単身生活をしました。残念ながら、此処も、家族はついてきてくれませんでした。仕事は武器輸出禁止3原則なる制約が大きく響き、順調とは行かず、辛いものがありましたが、そこで、私が学んだことは、米国の会社での取引上の諸々の仕組み、それと自分の心得として身に付けたことは、素晴らしい英文の書状を送ってきていたアメリカ人の経営者がその母国語の英文を仕上げるまでに、何度も何度も、書き直している姿を目の当たりにしたことです。あれだけ修正して、あれだけの良い書状が出来上がるのだと感心。自分も、納得ゆくまで、練り直す努力を惜しまないぞ、「書く英語」を磨きたい、と思うようになったものです。

その任務を終えて、帰国して一年足らず、会社がパイオニアとして開発した、先端技術を備えたエレクトロニクス製造設備、それを米国市場で本格展開したいと目論み、ノースカロライナ州シャーロット市に拠点を設けたので、その責任者として、4年間、60歳まで駐在しました。お蔭で、動き始めた黎明期の世界のエレクトロニクス業界を、製造装置メーカーの視点から学ぶこと出来ましたが、この任務で、私が思う存分に働けた要因が、関学商学部昭和50年卒、野上義生君という、国際感覚が豊かで、英語力もある、有能な後輩の存在でした。私が先輩であるということもあり、野上君は、日本での窓口として、私の仕事を大いに助けてくれました。彼は、日本の市場のみならず、アメリカの市場でも、自身のアイディアに基づく装置の開発や顧客が必要とする貴重な情報を蓄えており、何処に行っても、人気者で、その存在が私の仕事のメリハリを付けてくれました。有難い存在でした。同じ大学の先輩・後輩の絆が有って、楽しくも、順調に事業展開が出来たものです。同じ学校で学んだことが誇りと思えるように、皆さん、今しか出来ない、良い学生生活を送って欲しい、その事こそが社会人としてのしっかりとした基盤になることを、覚えておいて欲しいと言いたくなった一つの背景です。

因みに、野上君本人の良く撮れた写真が有りますので、お見せしましょう!!

ごく最近の何処かの学会で撮られたようですが、どちらが、野上君でしょうか?それは、右の方ですよね。左の方は誰?私は会ったことがないが、有名人らしい。ノーベル物理学賞を受賞された人らしい。知っていますか?


以上、海外での17年間の駐在を含む、会社勤めの経験から皆さんに伝えたいことを纏めると、
現地の言葉を使うことの大切さ、相手の心を掴み、その機微に触れようとする心掛け、そして、海外での経験は、日本を見直す力につながり、日本国内だけでは 得られない 視野の広がりが身につくということです。

さて、簡単に、「人の機微に触れる」と言いますが、こうすれば出来るという方策があるわけではありません。ここで、ひとつ、結果として、その場に居た人たちの心を掴んだ私の体験を紹介しましょう。意図したものではなく、いわば、「瓢箪から駒」のような発言でしたが、私が、一生懸命だったことが、伝わったのだろうと思います。技術面の予備知識ですが、ちょっとかいつまんで話します。当時、X線検査の分野では少量の放射線投与で、精度の高い診断画像が得られること、すなわち、放射線被曝を極力少なくすることが、特に小児用には課題でした。その為に、X線の透過性が優れているという特性から、メタルの代替品と見做されたのが炭素繊維製のカセットでした。私の会社は、その製品の入札で有望視されるメーカーの一社であり、私は、ニューヨーク州にあった コダック社の研究開発本部を既に幾度か訪れ、その都度、湾曲具合や厚み均一性についての同社の仕様に応える為、改良サンプルを事前提供していました。が、なかなか、研究メンバーにOKが貰えないままでした。78回目のサンプル仕様の会議で、可なりの数の研究メンバーが一同に介し、試作品の評価テスト結果を討議していました。なかなか結論の出ない話し合いが延々と続く中、私は思い切って立ち上がり、笑顔で、ですが、意見を述べました。

「製品の厚みや湾曲面の精度を分析評価し、論議するのに、ご担当のリーダーは適任でしょうか?皆さん、リーダーの手や指を見て下さい、どんなに大きい手や指であるかが、お分かりでしょう。


“They are like baseball gloves.”


まるで、野球のグローブのように大きいじゃないですか!そんな手や指で、プラス・マイナス5ミクロンというような レベルの誤差や較差のチェックが 本当に出来るのでしょうか?」 

議論の出口が見えない時に、冗談交じりで、「そろそろ、結論をだしましょう」と、提案する私に、研究者たちが、一斉に反応してくれたのです。『本プロジェクトは、貴方の会社に決めよう!』と。それは、日本人の商談相手からは予想、期待もしなかった、最後の一押しとなる 発言であると、認めてくれたのです。時は、現在のように、アメリカの野球界に野茂やイチローなどの日本の選手も、いない頃日本人の私から、アメリカの人気娯楽・ベースボールの用具を例に出した、その譬えが、如何にも、皆が知っている上司の手、指の大きさのことにピッタリだった。そのユーモアが功を奏したといえます、怒らせてしまう危険性も無きにしも、あらずでしたが、私の真剣な心が、その場にいた人たちの心に響いたことで、延々と続きそうな論議に終止符を打つ形になったのでした。その日以降、コダック社との提携がスタート、その後、世界市場での炭素繊維製の重要な商品として育ったようです。 

 

シャーロットのオフィスでの私の姿と、取引先のメンバーとのスナップショット、そして、下の写真は、日本にも沢山ある「さるすべり・・・百日紅」の木がその漢字表記の通り、7月から9月の100日間、オフィスの前で、紅く咲き続けるのは、忘れられない、美しい景観でした。「さるすべり」を英語では 
  

 crape myrtle .


というのですが、難しくて、面白い発音です。


この講義も、終りに近づいてきましたが、過去を振り返るだけはなく、退職した今の私の生活について 述べることにします。なお、40年間勤めた会社から退職後の8年間は、自分が設立した会社を窓口として、関係先の海外営業の諸々のサポートに携わり、アメリカへの出張など、超多忙な時期もありましたが、本講義のテーマに沿うものが、特に無く、取り上げません。

さて、週1回の水泳ついての話になりますが、長年、私の運動の中では、最もストイックに守っています。  

 
 

左上の写真に写っているものは、昨年の5月から今年の5月までの13ヶ月の間に、150km泳いだと、プールマイスターなる称号を授与する認定証で、私の住まいの東京都練馬区が、水泳距離の達成を認定するものです。うやうやしく貰ってきましたが、これも、励みにはなります。その他に健康維持の為にするものは、ゴルフと山歩き、右上の写真は、KG同期との軽井沢のゴルフ場でのスナップ、左下の写真は、昨年の夏の白山(2,702メートル)の頂上でのスナップ、右下は、同じく、白山の北側の池。        

月一回の山登りと仲間との悠々ゴルフ、そして、日課のウォーキング、此れには、都内のエスカレーターは、余程のことがない限り、使わない、長い階段でも、歩いて上り下りするというルールというのか習慣も、含んでいます。山登りでは、日本一高い山、日本人として一度はということで、御殿場からの歴史的、最長コースで、48歳の時に、富士登山をしましたが、昨年の秋には、東京都で一番高い山に登っておきたいということで、ワンゲル後輩数人と、2,017メートルの雲取山に登りました。正直言って、登る途中は、しんどい、何故、こんな事をしているのか、と考える瞬間や時間は、必ず在りますが、若い時も、歳を取った今も、山に登ると、やはり、いつまでも、ワンダラーであるのか、何とも言えない、達成感あり、特に、自分より、2歳から18歳も、年下のワンゲル後輩数人との月一の山登りは、日々の活力の源になっています。

 
 
 

これらの写真は、この23年の間に登った夏山で撮ったものです。3年前は、五竜岳、昨年は、白山、今年の夏は、鳥海山など、2,3002,800m級の高山に登った時の景観です。山の写真に加えて、最近では、高山植物の花々を愛で、このように、写真を撮ることも楽しみです。この歳になっても、このような山々に登ることが出来るのは、学生時代からのワンゲル活動の積み重ねが有るからだと思っています。 

 

関東在住のワンゲル先輩・後輩の10人程で行く、月一の奥多摩方面の山々、5月初旬の高尾山の若葉が美しい景観と11月半ばの雲取山の麓で見られた林間の紅葉です。

 

丹沢山系への山行きでの、ワンゲル先輩・後輩とのショット。

今も続けている英語の学習のことですが、有言実行、ネイティブ指導の下で、しています。この3年間は、書く英語の学習に力を入れました。自分でテーマを決め、小論文形式に、長年、海外生活を経験した視点からの問題意識、自分の主張や日頃の想いを纏めるのです。ネイティブの先生に励まされ、添削してくれる前に、少しでも、恥ずかしくないように、内容や論理形成に頑張らねばなりません。今話したり、書いたりする英語には、自分が持っている、人としての中身、つまり、主張、知識、ひいては人柄が表れる、或いは、表すものだと痛感しています。なお、この12月に小論文を纏めて一冊の英文エッセイ集にしました。読み易いように、和文対訳も付けました。内容に多少なりとも興味の有る学生諸君には、目を通して欲しいので、後日、希望を伝えて貰えれば、限られた方に差し上げたいと考えています。

さらに、英語の学習の話になりますが、東京駅近くにある関学オフィスで、月一回OBOG同志と集まる英語サークルに参加、英語で時事問題を音読、論議する機会になっています。ここでは、仲間との交流も大事な点ですが、各自のしっかりとした 事前準備、互いに切磋琢磨する意気込みがキーであり、頼もしい集いです。日本語の記事だけでは、読み流し、マスコミ情報だけでは、気が付かなかった、国内外で起こっていることの中身や内容の深みを学ぶことも多いので、何かと充実した時間になっています。

さて、生活信条というと、偉そうに聞こえますが、良いも悪いも、色々な経験を通して、自分なりに、1本筋の通った心掛けで、今の人生を生きているつもりで、その一端を紹介しましょう。我々の社会に於ける邪悪や犯罪は、一個人の心の中に生まれる小さな誘惑が出発点、それが次第に大きな罪へと展開していくと考えています。逆に、ちょっとした誘惑にでも、それに負けなければ周りからの信頼獲得へ、そして、小さくても自信へとつながります。ちょっとしたことだから、周りが見ていないし、まぁ、これくらいなら良いのだという心の隙が、全ての社会悪の始まりであるという問題意識です。猪瀬東京元都知事が、自身の選挙運動直前に、裏金献金を受けていたと告発され、知事の辞任に追い込まれるという、訳の分からぬ事件がありました。どうして、このような汚職スキャンダルを起こすことになったのでしょうか。この事件で、ちょっとした誘惑に駆られそうになった私自身の経験が有り、その話を自戒を込めて話しましょう。我が家も含めての12軒の家屋に囲まれている広い雑木林があったのですが、樹木を伐採、宅地開発する、こういった開発事業は、往々にして、近隣住民とのトラブルを引き起こすもの。私は直ぐに、近所の人たちと結束し、実質的な住民代表として、住民の利益と懸念の観点から、この事業を見張ってゆくという役割を果して行きました。そして、工事が本格的に始まるという頃、たまたま、工事関係者が我が家のガレージの前で寛いでいる様子だったので、ちょっと個人的なことを話し掛けてみたのです。実は、我が家のガレージの入り口に4個の段差用の敷石が置いてあったのですが、車のサイズの点から、もう1個 欲しいと思っていたので、同じデザインのものが見つからないことを相談してみました。すると、その数日後、帰宅したら、1年近くも探していたのに見つからなかったデザインの敷石が置いてあったのです。私は非常に嬉しく、やって来た現場の監督に、早速、代金の支払いを訊いたのですが、彼は、『大した金額ではないです、お支払は結構ですよ』と、言うのです。それを聞いて、一瞬の間ではあるが、このまま、受けようかという気持ちになりましたが、いやいや、其れでは、言われのない贈り物を受け取ることになると、自制心が働きました。先方は、それでもということでしたが、私は、4,800円を支払い、見つけてくれたことへの感謝を丁寧に言い、領収書を受け取りました。後々、この一瞬 誘惑に負けそうになった話をすると、友人たちは『4,800円やから踏みとどまったけどな、もし、それが、48,000円やったら、誘惑に負けとったかも、な』と、言われ、一緒に笑ったものですが、その時、猪瀬氏の気持ちが垣間見えた気がしました。後になって分かったことですが、その4,800円のお蔭で、工事関係者からの大いなる信頼が得られていたことを、5か月も掛かった工事完了後に責任者から知らされたのです。加えて、もし、敷石を無料で、受け取っていたら、引け目を感じ、思っていることは直ぐに顔に出るという、私の生来の人間性から、間違いなく、近隣の住民から不信感を得ることにも繋がっていたであろうと思いました。私自身、誘惑に引きずられてしまう可能性もありましたが、この経験の結果から、大事なことは、初期段階で、これらの小さな誘惑を克服することであり、更には、社会やマスコミが既に起きてしまった犯罪や犯罪者個人を、これでもかこれでもかと、追いかけるだけではなく、寧ろ、犯罪の引き金となる背景、根っこに在る社会の仕組みや組織を追い掛け、また、古くからの仕来たり、決まり事を見直すことを重視する社会にして行くことが肝要という問題意識を強くするようになり、そのような目で世の中を見ている、今の自分がいます。

次に、将来の世代の為に「今」というのか、懸念することは、少子化の進行、国の莫大に膨らんだ借金、検討されている国民背番号制度の不備、真の英語教育の障害となる現状の入試や教育制度、地球温暖化など、など、沢山の気掛かりなことが有り、夫々について、自分なりの主張を持っていますが、それらは、本講義のテーマではありません。

ここでは、グローバル社会に対応する真の人材になる為に先ず認識しておく必要があると、私が思うことを、学生の皆さんに話しておきたい。それは、国際的にも誤解されるようなことをしばしば引き起こしている、日本人の発言や交渉下手の背景、様々なことに関わる日本語の曖昧さのこと、其れに由来する日本人特有の思考パターン、曖昧な表現力です。また、何より、そのことの認識欠如です。独特な日本語表現のあり様が根底となって、それが社会全体のあらゆる文化の側面、国内外の政治にも影響している、と強く、長い海外での生活・駐在経験で身に付いた視点から、そのように思っています。

日本語の文章は、何より、相手への尊敬の気持ちを表す言葉、自分を謙遜する表現、丁寧さを伝える言い回し等々から成り立っています。また、驚くべきことに、日本語は、話し言葉であれ、書き言葉であれ、話し手と聞き手の間の年齢差、社会的地位、そして、二者が如何なる関係にあるのか、ということで、言葉そのもの選択や表現の仕方が変わってきます。つまり、話す中身の論理よりは、むしろ、その言葉の選択や表現の仕方の方が大事になることがしばしば、起こるということにもなります。言い換えれば、日本語の曖昧さから来るはっきりしない話し方が有るのです。長い間、海外にいると、仕事上で日本語を通訳することもありましたが、「本当のところ、何が言いたいのか」と、疑問に思ったものです。これからは、若い皆さんには、日本語・日本文化の特徴を踏まえながらも、先ず、その特異性を認識すること、その上で、地球人として、明確なメッセージを発信でき、堂々と渡り合える人材が増えることを、強く願っています。

本日の講義の締め括りとして、今回の講義の冒頭にも言いましたが、充実した大学生活の4年間
は、卒業後の夫々の活躍の基礎や支えとなるもので、何より、共に勉学をし、厳しく心身鍛練した仲間との生涯の絆をつくってくれるものだということ。私の場合は、ワンダーフォーゲル部の部員生活での厳しい心身の鍛錬が、その後の社会生活の様々な場面で人生への自信をつくってくれたと考える日々であります。

また、私の場合、私自身が17年間の海外生活を過ごして、社会人として活動中に英語との関わりで気付いたことは、関西学院での英語教育の点でも恵まれた環境の中で、学生時代に基礎力を身に付けることが出来たこと、それが如何に大事であったか、再確認する昨今です。最近、皆さんの関西学院大学は、国から国際化に向けて重点支援されるという「スーパーグローバル大学」に選定されました。元々、素晴らしい教育環境に恵まれた学び舎です。自分を鍛え、卒業すれば社会に役立つ、奉仕できる人物になれるよう、大いに、この恵まれた環境を意識し、それを生かすよう、心掛けようではありませんか!

最後に、学生の皆さんへ、のメッセージです

自分が目指すことを定め、それに向かって挑戦、しっかりと文武両道の充実した学生生活を送って欲しい。

グローバルな場で活躍できる為に、英語というコミュニケーションツールをしっかり身に付けて欲しい。

振返ってみれば、学生時代の4年間は、心身を鍛えて、その後の40年間に相当する大事なものであった。ということです。

学生時代の 今、今しかない将来を支えてくれる土台を創るのは、今です。

卒業してからでは、遅すぎる。今でしょ!   

Tomorrow will be too late !

It’s now or never.   Do your very best!  有難う!